SSブログ
古民家・人形 ブログトップ
- | 次の10件

南部曲り家と民話の世界へ [古民家・人形]

各地で記録的な大雪・・・・・皆様には、雪による事故や被害などに遭われない

ように、と願っております。

 

さて、本日紹介する南部曲り家とは、岩手県を代表する民家形式の一つであ

る。     旧南部領に分布していた民家で、名の通り家屋が直角に曲がって

おり、片方には人が、もう片方は馬屋(まや)として馬が住む。

人馬が、一つ屋根の元で暮らす形態の民家なのである。

それだけ、馬が当時の暮らしの中で重要な労働力であり、大切にされてきた証

なのである。

 

 この曲り家は、岩泉町から移築されたものだが、建築時期は19世紀後半とさ

れている、江戸末期(文久、慶応の頃?)の頃の肝入(今の村長)の家であった

と伝えられている。

 建坪は64坪で、当時としては平均的な大きさの農家であったらしい。

 

 屋根の萱葺きは新しい、今年二十数年ぶりに葺き替えたとのことである。

 

 厚さは1mはあろうか、専門の職人の手により見事に葺き替えられている。

 

 

 向こう側に見えるのが馬屋である。

 

 農作業を終えた馬が、ここで休み、食事などの世話をされていたのである。

 

柳田国男で有名な「 遠野物語」、その遠野にも曲り家の集落があり、また民話

の故郷としても知られている。

その遠野の民話の中に、農家の美しい娘と飼っている馬との悲恋ものがたり

がある。

馬と恋仲になってしまったことを知った父親は、怒り、馬を引きずり出し、桑の

木に吊るして皮を剥いでしまう。 馬が息絶えたそのとき、その皮が娘に覆い

かぶさり、そのまま天に昇ってしまう。

嘆き悲しむ両親の夢枕に立った娘は、親不孝を詫び、蚕を授ける。

蚕により生計をたてることができた両親は、桑の木で娘と馬を彫り、祀ったとい

う。

この彫り物は、「オシラサマ」と呼ばれ、古くから遠野の農家の家々で、養蚕の

神様として信仰され、祀られているという。

 

 さて、本日はここまで、次回は囲炉裏を囲み、「オシラサマ」のものがたりを

語りべの本より、方言で紹介することとしましょう。

                                       では                                                 


nice!(13)  コメント(15)  トラックバック(0) 
共通テーマ:日記・雑感

啄木の暮らした家   その2か~~~? [古民家・人形]

更新がまったりとしております・・・・・・・・(のんびり・ゆっくりということで・・・)

まあまあ、ほんとに忙しい師走でござ===い ますです  ><。

ちゅうわけで、、、、、、、、大した記事にもなりませんが・・・・・・。

啄木が過ごした家でしたね・・・・・元武家屋敷であったそうです。

 

 

啄木と節子の部屋  奥は玄関に続く部屋

 

啄木夫婦の部屋より両親と妹が暮らした部屋を見る

 

 節子愛用の琴が展示されている

 

奥の部屋は別な家族が間借りしていたと言う

 

 

 

 

この日、ギンドロの木を見に行った。

無風のよく晴れた日だった、ギンドロの葉はそよぐ気配もなかった。

青空を背景に悠然とそびえるギンドロの木・・・・・・少し心が晴れて・・・・・・。

 

 

 

平日の更新が、困難になってきています><

時間がとれなくて、マイ・ブログも風前の灯状態・・・・・・・。

記事もワンパターンになりつつあり、今後が心配だにゃ~~あ。

こんな状態です、興味ある方だけたまに覘いてみてください。

ほそぼそでも、何とか続けていきたいと・・・思ってますが・・・。 

今日は、おやすみ   です^^


nice!(16)  コメント(20)  トラックバック(0) 
共通テーマ:日記・雑感

啄木の暮らした家   1 [古民家・人形]

盛岡市内で唯一の啄木 遺跡といえる、啄木が暮らした家。

盛岡市帷子(かたびら)小路8番戸、  が当時の住所。

明治38年6月に啄木と節子が僅か3週間ほど暮らした家である。

 

 

と言っても、この家の2間だけを借りていたにすぎない。

当時は萱葺き屋根であった。

 

 

館内は自由に観ることができる。 

 

             

2人とも初恋の相手、大恋愛の末、両家の反対を押し切って結ばれた。

節子は士族の娘、父は村長を務めたこともある家柄。

女学校時代の節子はバイオリンを弾き、美しい声で歌を歌い、文学を愛するモ

ダンな女性であったという。

歴史にもし、はないと言うけれど、啄木と結ばれていなければ、平凡ではある

が幸せな人生を送ったであろう。

 

 オレンジ部が間借りした部屋、四畳半と八畳の2間に啄木の両親と妹、そして

啄木夫妻の5人が暮らした。

当時、父一禎は寺の住職を追われ(宗費の滞納といわれている)一家の扶養

という重責が二十歳の詩人の身に降りかかっていた。

この後長く一家は貧窮にあえぎ、渋民村に帰郷した啄木は代用教員となるが

、一家は餓死線上をさまよう如き生活であったという。

生涯、赤貧の暮らしから浮上できぬ啄木の人生にあって、唯一の幸せを感じた

ひと時がこの盛岡での暮らしであったのかも知れない。

  

 

 

二人が過ごした四畳半の部屋は、当時のまま保存されている。

障子越しに見える風景を、啄木はどのような思いで眺めていたのであろうか。

啄木      二十歳の初夏であった。

                                 次回へ

 

 

 


nice!(18)  コメント(21)  トラックバック(0) 
共通テーマ:日記・雑感

一の倉邸を訪ねて   2 [古民家・人形]

伊藤 博文がここを訪れた際、阿部 浩夫人は「安倍宗任が前九年の役で敗

れた後、京の都に連行された際、都人に梅の花を差し出され【此れは何の花

か??】と蝦夷の田舎者には風流は判るまいと侮蔑の表情で問われた。

宗任はすかさず、【我が国の梅の花とは見たれども 大宮人は何というらん 】

と歌で答えたため、驚き、敬意を払うようになった」

と言う話をしたところ、博文は大いに感銘を受け、早速筆を執って揮毫したもの

である。

 

正面玄関(内部も観覧できる、管理人さんが常駐している)

(当時の興味深い話がいろいろ、聞けますよ)

 

今は使用していないのだろうが、古い井戸がある。

 

 

 

窓ガラスも明治時代製造のもの、ガラス越しに見ると、多少のゆがみがあり、

そこにも歴史を感じる・・。

 

 

ここの紅葉は長く続くらしく、雪が降ったときには紅葉と雪の写真を求め、多数

の俄かカメラマンが押し寄せるらしい。

 

 

一の倉邸から道路を挟んで、向かい側には安倍舘跡がある。

今は空堀跡のみであるが、館は6区に分けられ、南館・中館・本丸・北館・外館

匂当館の名であったという。

前九年の役で、安倍 貞任らが立て篭もった厨川柵、嫗戸柵(おばと)は

西北に大きな沢、他の2面は10mの絶壁をなす河岸で、激しく抵抗した。

攻めあぐんだ源 頼義軍は、民家を壊して堀を埋め、萱草を山のように積み上

げて火を放った。

折からの強風にあおられ、城内は火に焼かれ、安倍の軍勢はことごとく討ち死

にし、又は自決し敗れ去った。  この時、貞任は頼義の面前で、憤死、その子

千世童子も斬刑となった。

宗任(貞任の弟)は逃れたが後日降伏し、冒頭のように、都に連行されたが、

生き延びた。 

 

   

(現官房長官  安倍 晋三 氏は、宗任の子孫になるようです)

 

今、安倍舘には当時の痕跡は残されていない。

僅かに、昭和40年代半ばに建立された、貞任神社なるものが見受けられた。 

公園の片隅にひっそりと建てられていた。(右奥の鳥居のほうです)

 

 

                                    おわり


nice!(13)  コメント(18)  トラックバック(0) 
共通テーマ:日記・雑感

一の倉邸を訪ねて [古民家・人形]

盛岡市郊外に安倍館町という地域がある。    ここは康平5年(1062年) 

前九年の役で安倍貞任一族が、源 頼義、義家と戦い、滅亡した地と伝えられ

ている。     安倍一族の末裔である阿部 浩は、安倍貞任の最期の地に

土地を求め、別邸を建てた。   明治40年のことである。

これが、現在の一の倉邸である。  

 

 

阿部 浩は、南部藩の武士の子として嘉永5年(1852年)、下の橋町で生まれ

た。    「散髪論」や「廃刀令」を主張するなど当時にあっては、進取の人で

あった。     非常に優れた才覚の持ち主であったらしく、後年、45歳にして

群馬、千葉、富山、新潟の各県知事と東京府知事など5府県の知事を歴任し

ている。  平民宰相 原 敬と親交が深く、大正10年(1921年)彼の暗殺に

ショックを受けたのか、翌大正11年に享年71歳で他界した。

大正14年、一の倉氏に所有が変わり、「一の倉邸」と呼ぶようになった。

 

 

敷地面積2600坪、木造平屋建て、数奇屋風の建物で、大小14の和室などで

建坪140坪ほどである。

東京から招いた庭師によって造られた庭園は3つの中島を持つ池があった。

(現在は池はなくなっている)

京都から移植された約270本のもみじと、赤松の針葉樹により構成されていた

ようであるが、もみじは現在70本に減ってしまった。

 

 

 邸内は写真撮影は禁じられている。

当時としては、贅を尽くした最高級の造りの建造物であり、その評価は極めて

高い。  内部をお見せできないのは非常に残念である。

色々な仕掛けが施された構造になっている、興味深い造りである。

現在では復元できない材料、技術で駆使されているとのこと。

ガラスも当時の製造のものである。

 

 

玄関をくぐると「吾郷楳荘」(あきょうばいそう)の扁額がある。

 時の総理大臣 伊藤 博文がこの地を訪れる。

 

                             次回へ


nice!(12)  コメント(14)  トラックバック(0) 
共通テーマ:日記・雑感
- | 次の10件 古民家・人形 ブログトップ

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。